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"The Rocky Horror Picture Show Book"
には「ニュージーランド生まれ」と書かれているが、これはまちがいで、本当はイギリスのチェルトナムに1942年3月25日に生まれた生粋の英国人である。しかし、オブライエン家は彼が10才のときに、なにを思ったのかニュージーランドに移民してしまう。
一家は牧場をかまえ、牛を放牧しての酪農生活を始めた。リチャード少年は広大な原野や先住民族マオリの音楽や舞踏、それに乗馬などを好んだものの、酪農自体…特に牛は好きになれなかった。
そのころ、町の映画館で低予算のB級ホラー、SF映画と出合い、強烈にのめり込んだ。”サイエンス・フィクションDF”の歌詞に唄い込まれた「透明人間」「地球が静止する日」「禁断の惑星」など(今でこそ古色蒼然たる古典作品だが)、その多くは当時、新作として公開され、リアルタイムで体験したリチャード少年にはまさに未知との遭遇の連続であった。
また同じ頃、演技に対する興味もふくらみ始めていた。自分の話術に大勢が笑い、引き込まれるのを見るのが楽しかった。彼の関心はあまりに酪農生活とかけ離れてしまい、決別を告げる日の訪れは避けられなかった。リチャード・オブライエンは第2の故郷に両親と2人の兄弟、親戚を残して、単身イギリスに帰国する。22才の春であった。
ロンドンに落ち着いた彼は、アクタースクールに通って演技を磨いたが、生活費は理髪店やゴミ回収などの仕事でまかなう日々だった。最初の映画出演は
Carry on Cowboy で、カウボーイのスタントマン。また、007/カジノ・ロワイヤル では端役を得た。
「ヘアー」で初舞台を踏んだ彼は、次に
Gulliver's
Travels(「ガリバー旅行記」の舞台化?!)に出演したが、そこへ上演中の人気ミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」のヘロデ王役を引き継がないかとオファーがあった。大きなチャンスだったが、彼自身が心配したとおり、これは完全なミスキャストで、1回限りで役を降りる結果となった。しかし、このとき監督だったジム・シャーマンとのコネクションが後にロッキーホラーに結びつくのである。
かねてから「ジーザス…」のような上品すぎるロック・ミュージカルに不満を抱いていた彼は、暇を見つけてはオリジナル曲をギターで作曲していた。この話を聞いたシャーマンは関心を示した。それもそのはず、彼はかつて撮った16mm映画
Shirley Thompson Versus the
Aliens(「シャーリー・トンプソン対エイリアン」てなタイトル)でSFとロックのドッキングを試み、新作の舞台
The Unseen Hand
でもB級映画、コミックス、SFを題材とするような人物であった。リチャードが吹き込んだ”サイエンス・フィクションDF”のデモ・テープを聞いた独立系プロデューサー、マイケル・ホワイトは大いに気に入り、シアター・アップステアズで上演するため2000ポンドの資金を用意した。
They Came from Denton High
(「デントン高校から来た」?)と仮題の付いたミュージカルは、その後
The Rocky Hoorar Show 、そして最終的に The Rocky Horror Show
となって、1973年6月19日(16日プレビュー)にわずか63席の小劇場ロイヤル・コート・シアター・アップステアーズで幕を開けた。ロッキーホラーショーの誕生である。
「Rockyの脚本を書くのは、まるでジグソー・パズルをといてるようなものでね。先にできていた曲が数曲あったから、それをはめこむのがひと仕事。オープニングから書き出したんじゃない。発端と結末をまず決めて、あいだを埋めていったんだ」(R・オブライエン)
彼は自分が演じたいがためにエディーという50年代ロックの申し子のようなキャラクターをつくった。しかし、ジム・シャーマンが彼をリフ・ラフ役に強く推したので、しぶしぶリチャードは折れたという(その判断の正しさは誰の目にも明らかだろう)。
異例の大成功を遂げたロッキーホラーショーは、翌年ロサンゼルスでも幕を開け、75年と76年には伝説的な来日公演も行われた(初来日にはリチャード・オブライエンとジム・シャーマンが同行している!)。そして、75年3月にブロードウェイ進出を果たし、9月に映画「ロッキー・ホラー・ショー」が全米公開となるのである。
しかし、この快進撃には落とし穴が待ちかまえていた。リチャードも出演したブロードウェイ公演は不入りに泣きわずか45回で幕を閉じ、映画も動員の悪さに上映館を拡大できず、ほとんどお蔵入りとなってしまった。だが、その水面下では新しいなにかが胎動を始めていた。ロサンゼルスなどの限られた都市では映画の動員がまったく衰えず、さらに奇妙な現象が起こっていた -- 観客の顔触れがほとんど同じだったのである。
これにヒントを得た配給元20世紀フォックスは、当時産声を上げたばかりのミッドナイト上映というマーケットにロッキーホラーを投入した。その舞台がニューヨークのウェイバリー・シアターだった。そして、ここに結集したファンたちが、現在世界中でポピュラーになった「観客参加」の骨子を生み出すのである。
「噂を聞いて見に行ってみたよ。映画と観客が一体となって、それは素晴しかった」(R・オブライエン)
真夜中に燃え上がったロッキーホラー人気はまたたく間に全米主要都市に広がり、最盛期には上映館は実に200を数え、当然ながらそのほとんどに熱狂的なファン・グループが存在し、映画館狭しと飛び回っていた。
そういった間にも、リチャードの活動は続いていた。代表的なものは、続編として知られる「ショック・トリートメント」(1980年)だろう。ロッキーホラーと同じくリチャードが脚本/作詞/作曲を兼ねたこの一種の映像メディアのサタイアは、脈絡に乏しい不可解なストーリー展開という点で前作の欠点を性懲りもなく引き継ぎながらも、美学の継承に失敗するという致命的欠陥を露呈してしまい、結局正式なロードショー公開の機会を与えられることはなく、お蔵入りとなった。日本でも劇場未公開のため、ビデオでしか観ることはできないが、ロッキー・ファンにとっては出来の悪い子供ほどかわいいという心理があることも否定できない。アメリカでも上映されることはまれで、観る機会があれば自慢話のタネに拝んでおくのもよいだろう。(しかし、この映画を続編扱いするのには実は無理がある。宣伝文句には「ロッキーホラーのスタッフが贈る」と謳っているばかりで、続編のゾの字もないのだ…)
舞台では、脚本を書き自らも出演した Disaster
は、ロッキー・ファンにはうけたものの、批評家からは冷たく扱われた。その後、ロイヤル・コート・シアターのロック・ミュージカル
T. Zee を手がけた。TVでは、A Hymn From
Jim(演劇)、子供向け短編 Uggers and Mee
に参加し、サム・シェパードの Micky Mouse Now
にはアル中になった50歳のミッキー・マウス役で出演(ちなみにミニー・マウス役はリトル・ネル)したほか、TVシリーズ
Robin of Sherwood には魔術師役で異彩を放った。映画では、短編
The Contraption
のほか、AIDSで死去した奇才デレク・ジャーマン監督の記念すべきデビュー作「ジュビリー」に、これまた魔術師役で出演(リトル・ネルが色情狂!役で共演)、かつてロッキーホラーで「銀ピカ衣装のフラッシュ・ゴードン」と唄われた30年代のSF古典映画のリメーク「フラッシュ・ゴードン」にも出演したが、残念ながらこの超大作は興行的にも内容的にも悲惨な愚作に終わった(唯一クィーンのサントラが救いか)。
近年ではTVでの活躍が目立つ。視聴者参加アドベンチャー・シリーズ「クリスタル・メイズ」は、年間視聴率1位に輝く人気番組となり、ホスト役リックレス・リックとして怪演したリチャードは英国キッズのアイドル?となった。最新作「インク泥棒」(95年春全7回のダーク・ファンタジー)ではタイトル・ロールを務めたが、タイトルの前に名前が出るなど、別格の扱いがされていてメジャーぶりがうかがい知れる。役柄も、吸血鬼ノスフェラトゥとリフ・ラフが合体したかのようで、明らかにリチャードが演じることを前提として企画されたようである。
ロッキーホラーのコンベンションにゲストとして参加することも多く、ファンを大切にすることで有名。
94年にアナウンスされた「ロッキーホラーショー2」製作は、その後完全に凍結されてしまっている。監督には一時はティム・バートンの名前も挙がっていたが、当分のあいだ実現する見込みはないらしい。しかし、リチャードはすべての曲と脚本を完成させていて、デモ・テープの吹き込みも行われているようである。計画の頓挫は、企画の推進役だった20世紀FOX
の重役が退職してしまったのが原因ということで、リチャード自身はあまり乗り気ではなかったそうである。
好きな俳優は Broderick Crawford
という無名俳優。1937年から81年の間に100本以上の低予算映画でチンケなギャングや無法者を演じたとか。
趣味は20〜30年代に流行したシート・ミュージック・カバー(ポピュラー・ソングの楽譜を一枚の紙に印刷したもの)を収集すること。
R・オブライエンは2回結婚している。「ヘアー」公演で知り合ったキミ・ウォン(アジア系?)との間に72年に長男をもうけ、夫婦でロッキーホラーに共演(キミはトランシルヴァニアン)し、「キミ・アンド・リッツ」名義で3枚のシングル盤をリリースしたが、70年代半ばには関係が冷えきり、判れてしまったという(しかし、詳しいいきさつをリチャードは決して語ろうとはしない。その後、80年代初め頃に再婚したのが現在の妻ジェーン・オブライエン(デザイナーとか)で、次男が誕生している。自宅はロンドン近郊のバターシー。
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